脱力って中々出来ない
昨日も夕刻ガッツリ稽古しました。
滝汗です。
昨日の稽古の御題はズバリ、「一振り一振りをこれで止めと振っているか」コレです。「今やっている事よりその次の一手にもう気持ちが行ってないか?型は確かに決まり事だけど、相手に受けられる一振り一振りが本来必殺であって、それが受け止められたからその結果次に技を繰り出す、は善いのですが、初めから受け止めれられるつもりで木剣を振らない」とお叱りを受けます。必殺の剣なので、受ける側がミスったら大怪我するくらいの本気が必要と言う事です。
そんな所も滝汗の所以。
それと師より「相対すると、剣気が出すぎていて『斬るぞ斬るぞ』っていう気持ちが先行しているのが判り過ぎる」と注意を受けます。「丹田に力を入れて、もっと落ち着いて力を抜いて『すっすっ』と前に出ればよいんです」
注意されるとその後は出来るんですが、時間が経つと又この指摘を受けちゃいます。気持ちが先行して力で何とかしようとする、コレが私の欠点のようです。
型の手順を間違えないでできるようにもなりました。打ち太刀をやるようにもなり、人に教える(その行為自体が教えられているんですが)立場にもなりました。そりゃ始めた頃の事を思えば、段ちで上手くはなっています。でもね、なにか違うんです。師と行う最後の20分間の形稽古。簡単には書けないんですが、やっぱり思うように決まらないんです。稽古であっても使途の稽古は真剣勝負。正中線に居るはずの剣線を取られ、何度も殺されているんです。なんだかこの半年間の剣術稽古は、足踏み期間のようで、気持ちだけが焦ります。
師の所作を盗み見していると、電光石火の討ちこみは肩周りの脱力が肝のようです。
頭では判ってはいるんですが、骨身まで判ってないのですね。(;´д`)トホホ…
まだまだ光の見えない長いトンネルに居るみたいです。
P.S このエントリーがアップロードされるこの時間、私はFISCOに向けてハンドルを握ってトランポ運転中です。
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コメント
私が時々稽古を見させていただいている稲葉先生が、
「違ーーう!ここを狙って、ここ、ここ狙って打たなきゃだめ。もっと真剣に。」
って門人を叱っているのも、なんとなく形だけなぞっている時にこんな言葉が発せられているようです。
「今は時代が違うから『命がけ』って感覚は薄れているけど、生きるって事はどんな時代でも同じなんだよ。それを忘れちゃいけない。それを忘れちゃうと技にあらわれちゃう。」ってことらしいです。
武道の修行に終着点なんてないんでしょうが、命懸けのサンデーレーサーの松永さんが極められないことなんてないですよ。
投稿: yo | 2008年9月 7日 (日) 09時51分
yoさま
その先生の言われるとおりで、型は勝負所のエッセンスを抽出したようなものですから、本当にいかなきゃ型が成立しないのです。
そう考えると、私なんてまだまだです。
「あかんたれ」の見本みたいなもんです。
投稿: 松永 | 2008年9月 8日 (月) 11時25分