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2007年7月20日 (金)

マスター・キートンにあこがれて

 野良犬相手に表道具は用いぬ
 シグルイ 藤木源之助の台詞より

 モーターサイクル・ライディングに凝り、古流の剣術にはまり、初動負荷理論にて身体を作る・・・こんなことを日々やっていて、最近特に思うのは「人としてのポテンシャル、私ってどうなん?」って言う事です。

 モータースポーツも古流の剣術も、道具を使うのが前提の競技です。ただ文献を紐解くと雖井蛙流にも、刀を持っていない時に、素手で刀を持った相手に対する「失刀」と名前の付いた技があったそうです。今はそれがどのような技であったか具体的にはわかりません。開祖・深尾角馬は新陰流の覚えもあったようですから、新陰流の「無刀の位」の発展技かもしれませんね。

 モータースポーツは・・・?ジムで汗を流していると、自転車競技の選手、陸上競技の選手と一緒になります。すると、人間を中心に、モータースポーツ<自転車競技<陸上競技と思えてくるのです、特に最近・・・。もちろん私自身、エンジン付きの乗り物が好きで好きでたまらないのは変わりませんが、ゴーストの囁きは「裸一つになった時どうなん自分?」と問いかけてくるのです。

 それは普通の生活においてもなんです。

 ちゃんとマッチを使わないで火を熾せるのか?ロープワークをマスターできているのか?利器を自分の手で作れるのか?これらの三つのスキルを見ると、「あんたは縄文人か?」と、読者の皆様に言われそうなんですが、それでは質問です。自称文明人と言われている21世紀の我々と、縄文人。「一人でサヴァイバルする」という尺度で見たとき人としてのポテンシャルはどちらが高いのでしょうか?

 それじゃ、そんなに昔が良いのなら「石器時代に還してやろう」と、どこやらの国の将軍の言葉にもありましたが、そう言う事でも無いんです。21世紀大いに結構、ただ他人が一生懸命考えて作られた「便利すぎる道具」おかげで、使う本人が頭と身体を使わなくなってきてませんか?結果、人としてのポテンシャルを落としていませんか?つー事に日々悩んでいるのです。親にもらったこの身体も頭も、使いたおして何ぼでないかと。

 こんな事を考えている昨今、会うべくしてこんなサイト見っけ!

 古代発火法検定協会 

 はぁ~マスター・キートン読んで寝ます。 

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コメント

It thinks similarly.

投稿: zuka | 2007年7月20日 (金) 07時01分

zukaさま
同志っ!
ですよね。

やっぱり、ちょい古なMacでは日本語が化けちゃいますか・・・このBlog・・・。

投稿: 松永 | 2007年7月20日 (金) 08時52分

Same mind of soul!!.

Purchasing the new machine, because it has obtained,
it solves the problem of letter promptly.

投稿: zuka | 2007年7月20日 (金) 12時53分

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